沿革

1884(明治17)年1月7日 「ウヰルミナ女学校」開校
大阪女学院のルーツであるウヰルミナ女学校(Wilmina Girls’School、維耳美那女学校)が、米国カンバーランド長老教会外国宣教局(mission)のミッションスクールとして創設された。
創設者は外国宣教局の教育事業責任者A.D.ヘール(Alexander D.Hail)宣教師で、弟のJ.B.ヘール宣教師と協力して大阪市西区にあった川口外国人居留地19番Aとその隣接地22番(計約370坪)で開校した。 校名は最初の寄付者 William Saunders のWilと、その妻 Ermina の mina を組合わせ、「ウヰルミナ女学校」と名付けた。
1884
1886(明治19)年9月初旬 「大阪一致女学校」開校
大阪女学院のいまひとつのルーツである大阪一致女学校が、米国北長老教会宣教局のミッションスクールとして、教育宣教師のAnn E.Garvin校長を創設者として、川口外国人居留地16番(258.5坪)の宣教師館で開校した。
校名は、宣教局が大阪で創設した教会を一致教会と称したので、「大阪一致女学校」と名付けられた。
翌1887(明治20)年1月に西区土佐堀3丁目の旅館を借り、改装してそこに移転し、さらに1888(明治21)年1月には西成群清堀村(現在の校地で、地名は幾度か変更した)に土地約2,400坪を購入し、校舎を新築して移った。
1886
1892(明治25)年4月1日 大阪一致女学校の校名を「浪華女学校」と改称
1892
1899(明治32)年8月3日 文部省「訓令12号」発令
文部省は、訓令12号を発令し、法令による学校においては特定の宗教に基づいて教育を行うことを禁止した。
ウヰルミナ女学校、浪華女学校はともに上級学校への入学資格を失う不利のなか、しかし建学の精神を守り、毎日礼拝を続け、キリスト教教育を続けた。
そのため、1889(明治22)年頃から始まった反外国人キャンペーンとも重なって両校の入学者が激減したが、その後、その風潮もゆるみ、1903(明治36)年からは、生徒数は増加していった。
1899
1904(明治37)年4月1日 ウヰルミナ女学校と浪華女学校が合併
ウヰルミナ女学校の関係教会であるカンバーランド長老教会と、浪華女学校の関係教会である日本基督教会が1889(明治22)年10月に合同した。
そこで同じ教育方針を持つ大阪の二つの学校を合併し、校名は「ウヰルミナ女学校」を継承、校地校舎は浪華女学校に統合した。
1939(昭和14)年からの皇民化政策で、異民族の人々に日本風の名前を用いる創氏改名を迫った政府が、外国人の名前に由来する校名の変更を強制することが必至となり、やむなく校名を大阪女学院高等女学部と改称した。
1904
1947(昭和22)年4月 学制改革で「大阪女学院中学校」設置。
1947
1948(昭和23)年4月 「大阪女学院高等学校」設置。
1948
1968(昭和43)年4月 「大阪女学院短期大学英語科」開学
きめ細かい、水準の高い教育をめざし、珠玉のような短期大学をつくろうとの決意のもとに、英語科として107人の第1期生を迎えてスタートした。
さらに、1972(昭和47)年には、「大阪女学院短期大学英語専攻科」を設置した。
1968
2003(平成15)年秋 短期大学「特色ある大学教育支援プログラム」に採択
英語教育と教養教育を統合した大阪女学院短期大学の教育課程が評価され、文部科学省による第1回「特色ある大学教育支援プログラム(GP=Good Practice)に選定された。
2003
2003(平成15)年秋 高等学校「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」に指定
これまでの英語教育の実績が認められ、文部科学省から、「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(SELHi)に指定された。
2003
2004(平成16)年4月 「大阪女学院大学 国際・英語学部」開学
多くの関係者の祈りが実り、現在の敷地内に大学開学の夢が実現した。
一世紀を越えて、追い求めてきた教育の理想、その再創造に向けて新たな一歩を踏み出した。
2004
2005(平成17)年3月 短期大学基準協会による第三者評価結果、「適格」と認定
財団法人短期大学基準協会が定める短期大学評価基準を充たしていることから、適格と認められた。
2005
2009(平成21)年4月 大阪女学院大学大学院「21世紀国際共生研究科」開設
平和・人権システム専攻博士前期・後期課程を同時開設。
2009

歴史と人物

大阪女学院の歴史・人物についてご紹介いたします。

ヘール宣教師兄弟

ウヰルミナ女学校を設立しました。
協力して、ウヰルミナ女学校を設立したA.D.ヘール宣教師と弟のJ.B.ヘール宣教師は、日本伝道の初期からキリスト教学校を設立することが必要だと考えた。
明治政府は教育の普及に熱心で、官立の学校を次々に設立し、教師の養成のため師範学校を各地に設置していた。
しかし、師範学校や高等教育機関では、欧米の科学・技術はそのすべてを教えるが、思想や宗教など政府に都合の悪いことは教えない、いわゆる和魂洋才の方針で教育事業を進めていた。
例えば、天地万物の創造者であり、支配者である目には見えない神のこと、一人ひとりの人格の尊厳、人間は平等であること、平和の大切さなどを伝えるキリスト教の教えは、排除した。
ウヰルミナ女学校建学の目的は、「天地万物の創造者・支配者である唯一の神を知り、一人ひとりが、かけがえのない人格であることを知って、平和を愛し、明るく前向きに社会で活躍する人間を育成する」という、官立の学校では行えない教育をすることであった。

A.E.ガーヴィン校長

大阪一致女学校の創設者のガーヴィン校長は、19世紀のアメリカの女性の社会進出の気運のなかで設立されたウェスタン女子大学の出身で、1888年に新築した大阪一致女学校の礎石に「主を畏れることは知恵の初め」(詩編111)と刻み、信仰的な家庭婦人の育成と、誰も行きたがらないが人々に必要な仕事を、喜んで行う社会婦人の養成を志し、推理力や実用的な知的能カ、健康な身体の発達をめざす学校づくりを行った。

A.E.モルガン校長

1893年より通算18年間、ウヰルミナ女学校の校長を務めたモルガンは、ウヰルミナ女学校の目的を次のように記している。
「ミッションスクールの目的は、教育だけでなく、キリスト教教育です。
これら二つの言葉が結ばれて、一つの理念になったものです。このような成果は、官立学校では得られません。
・・・・・私たちの学校には、役に立つ訓練を、キリスト教の雰囲気と環境の中で与えることのできる教師がいます。
すべてにおいて、私たちが目指すことは、なんらかの方法で働く義務を悟り、正直に仕事をすることを誇りとし、日常生活の雑事を越えて、物事を見抜く力のある人間を形成することです」

森田金之助校長

35年間、ウヰルミナ女学校(現大阪女学院)校長であった森田先生は、個性豊かな教育者であった。
1877年3月14日、東京で生まれ、1900年明治学院神学部を卒業し牧師となった。1908年渡米、ニューヨークのオバーン神学校に入学、1911年に卒業して、大阪神学院教授兼教頭に就任した。
1925年より招かれてウヰルミナ女学校日本人初の校長となり、以後、天に召されるまでの35年間を女子教育のために献げた気骨のある自由人で、強い印象 を人々に与えた先生である。軍国主義や戦争が嫌いで、軍人のような丸刈りは拒否。服装も軍人調の国民服を着ず、敗戦間近まで紺の背広を着用していた。スポーツでも勝ち負けを争うのを好まないようであった。
戦後は、戦災で全焼した校舎の復興に、整地作業や材木運びなどの労働に連日、汗を流した。「キリストの十字架の救いを生徒達が本当にわかってほしい」と祈り続けて、キリストの学校での歩みをひたすらに歩まれた先生であった。

西村次郎先生

1900年3月4日大阪市に生まれる。大阪市立高商を卒業後、1922年山口銀行(現三菱東京UFJ銀行)に就職したが、1927年に伝道者になる事を決意し、退職。当時、ウヰルミナ女学校(現大阪女学院)校長の森田金之助先生に、キリスト教学校での教育を勧められ、同年2月ウヰルミナ女学校に就職。
1937年には、教頭・理事となり森田先生を補佐、特に、戦後は、戦災で全焼した学校の復興に全力を尽くし、校地を拡張、チャペルや校舎を建築し、その指導力を十分に発揮した。
身だしなみはいつも抜群、おしゃれと言ってもいい程であったが、その態度はざっくばらんで、スケールの大きな器量人であった。